大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(オ)993号 判決

上告人

藤井綱志

右訴訟代理人

立川康彦

被上告人

武本靖己

右法定代理人親権者

武本勝己

武本佐登枝

右訴訟代理人

稲澤勝彦

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人立川康彦の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係のもとにおいて、七歳の児童にはどのような種類の犬であつてもこれを怖がる者があり、犬が飼主の手を離れれば本件のような事故の発生することは予測できないことではないとして、上告人に民法七一八条所定の損害賠償責任があるものとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官宮﨑梧一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官宮﨑梧一の反対意見は、次のとおりである。

私は、本件犬の動作と被上告人の損害(転落による受傷)との間に相当因果関係の存在を認めることはできないと考える。

本件について原判決の確定した事実は、(一) 被上告人は、昭和五四年六月一六日午後四時ころ、福岡市西区脇山二六九八番地先の舗装道路上を谷口方面から原田橋方面に向つて自転車で通行中、自転車もろとも道路に沿つて左側を流れる椎原川の護岸壁から転落し、左眼球破裂等の傷害を受けて左眼を失明した、(二) 被上告人は、事故当時二年生(七歳)で、当日近所の同級生の一人と各自の自転車に乗つて遊んでいた、(三) 被上告人が乗つていた自転車は、以前から乗つていた子供用自転車が小さくなつたため、事故の約一〇日前に買い替えてもらつたばかりで、車長約1.4メートル、サドルの高さ約0.75メートル、ハンドルの高さ約0.9メートルで、被上告人の身体にはやや大きめで、ペダルに十分足が届かなかつたものの、当日まで転倒等の事故を起こしたことはなかつた、(四) 本件犬は、上告人が愛玩用に飼つていた体長約四〇センチメートル、体高約二〇センチメートルのダックスフント系雄犬で、上告人は、通常は庭に鎖でつないでいたのを、当日運動をさせるつもりで首輪から鎖を外したため、犬は一旦上告人方前の幅員約三メートルの前記道路の中央付近まで走り出た、(五) たまたま被上告人が右道路の中央より椎原川寄りを右自転車に乗つて通りかかり、犬との距離が約8.5メートルになつたところ、右のとおり走り出た犬は吠えることなく歩いて川の方に寄りながら二メートル程被上告人の方に近付いたので、被上告人は道路の端に寄つて通り抜けるため、ハンドルを左に切つた際、操縦を誤り前記のように椎原川に自転車もろとも転落した、(六) 被上告人が転落したころ、本件犬は右転落地点道路上から前方三ないし四メートルの道路中央よりやや左寄りに佇立しており、被上告人が運転を誤らなければ、本件犬の左側を通り抜けて走行することは可能であつた、(七) 被上告人は、日頃から犬嫌いであつた、というのである。

右事実関係に基づき、原判決は、(イ) 飼主の手を放れた犬が被上告人に近付いたこと (ロ) 普段から犬嫌いであつた被上告人が近付いて来る犬に一瞬ひるんだこと (ハ) 被上告人が身体に比してやや大きめの自転車の操縦に十分慣れていなかつたこと、の三者が相俟つて本件事故発生の原因をなしたものと認めるのが相当である、との判断を示し、結局、本件犬の以上の動作と被上告人の転落による受傷との間に法的因果関係の存在を認めたのである。

しかし、右三者のうち、(ロ)及び(ハ)は、本件事故に特有の原因であり、しかも専ら被上告人の側に存する原因であつて、上告人としてはいかんともしがたいものである。民法七一八条にいう「動物の加えた損害」とは、動物の動作によつて他人に損害を発生せしめることであるが、その損害たるや、動物にそのような動作があれば一般に生ずるであろうと認められる損害でなければならない筈である。本件犬は、上告人が愛玩用に飼つていた前記のような小型の犬であり、しかも本件記録によれば生後半年くらいの子犬であつたことが窺われ、咬癖や加害前歴等は認定されておらず、一般的には人に危害を加えたり畏怖感を与えるおそれはないものということができることは、原判決自体これを認めているところである。そして、被上告人が本件犬の姿を認めてから前記のように転落するまでの間に本件犬がとつた動作としては、自転車に乗つた被上告人が約8.5メートルの距離に近付いたころ、それまでいた道路中央付近から吠えもせず歩いてやや左寄りに二メートル程被上告人の方に近付いたということだけである。それ以上接近したわけでもなく、また被上告人の進路を妨げたわけでもなく、いわんや被上告人に危害を加えるような動作は何一つしていない。本件犬の右のような動作があれば一般に本件のような転落事故が発生するであろうなどとは、健全な常識に照らしてこれを認めることができないのである。原判決が認定した前記(六)の被上告人が運転を誤らなければ、本件犬の左側を通り抜けて走行することが可能であつたとの事実は、このことを裏付けるに十分であろう。

原判決のような立場をとるとすれば、本件犬の代わりに、兎や猫を置いたとしても、それらを嫌いな子供が本件のような事故を起こした場合には、理論上、その飼主に民法七一八条の責任を認めることにならざるを得ないことになろうが、それがいかに不当であるかについては、今更喋々するまでもあるまい。

(なお、原判決が本件事故発生の一因として認めた前記(ロ)の事実、即ち普段から犬嫌いであつた被上告人が近付いて来る犬に一瞬ひるんだとの事実中、被上告人が近付いて来る犬に一瞬ひるんだとの部分は、被上告人においてなんら主張、立証しないところであるばかりでなく、被上告人が本件犬の前記のような動作を認めながらも、少くとも幅1.5メートル以上空いていた犬の右側を通り抜けようとはせず、狭い方の犬の左側を道路の端に寄つて通り抜けようとした旨の原審認定事実から推認されうる被上告人の心理状態からは、かなりの隔たりがあるように考えられる。しかし、上告論旨はこの点を取り上げていないので、注記するにとどめることとする。)

私の反対意見の骨子は以上で尽きるのであるが、原判決が本件犬のけい留義務違反をもつて民法七一八条一項但書の注意義務違反にあたるとした点についても、傍論として触れておくこととする。

原判決は、本件犬は大型ではない愛玩犬であつて、一般的には人に危害を加えたり畏怖感を与えるおそれはないものということができるが、しかし子供にはどのような種類のものであれ、犬を怖れる者があり、犬が飼主の手を離れれば本件のような事故の発生することは予測できないことではないから、犬を飼う者は鎖でつないでおくなど常に自己の支配下においておく義務があるものというべく、本件事故当時運動させるため鎖を外した上告人は犬を飼う者としての右注意義務を欠いたものであつて、民法七一八条による責任を免れることはできない、と判示した。私も、これを全面的に非難するものではない。むしろ、殆んど賛成するものである。

しかし、民法七一八条一項但書の注意義務は、通常払うべき程度の注意義務を意味し、異常な事態に対処しうべき程度の注意義務まで課したものでない、とされている(最高裁昭和三四年(オ)第一〇四九号同三七年二月一日第一小法廷判決・民集一六巻二号一四三頁参照)。本件犬は、前記のように、人に危害を加えるおそれが全くないといつてよい小型の子犬である。そのような犬の飼主が、けい留を解いてその犬を放したとしても、本件のような事故が通常発生することを予見し、または予見の可能性があるとされるとすれば、それは、前記通常の注意義務を超えて苛酷なまでに過剰な注意義務、即ち異常な事態に対処しうべき程度の注意義務を課することになると思う。

大審院は、かつて、「犬ハ其性質ニ依リ人ニ損害ヲ加フル虞アルモノト其虞ナキモノトアリ其虞アルモノハ飼主ニ於テ之力保管上特ニ損害ノ発生ヲ予防スルニ必要ナル設備ヲ為スノ義務アリト難モ其性質柔順ニシテ人ニ損害ヲ加フル虞ナキモノニ至テハ必スシモ常ニ損害発生予防ノ設備ヲ為スノ要アルコトナク従テ飼主カ之ヲ放置シタル一事以テ其保管上注意缺如ノ過失アルモノト謂フコトヲ得ス」(大審院大正二年(オ)第七〇号同年六月九日判決・民録一九輯五〇七頁)との判例を残したが、飼犬は、一般に家人に対しては柔順でも、未知の人に対しては必ずしも常にそうではないので、右判例にかかわらず、私も犬を放置することは原則として民法七一八条一項但書の注意義務違反になると解するのであるが、本件犬のように人に危害を加えるおそれが全くない犬については、右大審院判例の趣旨が今なお妥当し、これを放置しても右の注意義務に欠けるところはないものと考える。

もつとも、本件犬のように人に危害を加えるおそれがない犬であつても、そのけい留を解くことが、地方自治体の定める取締法規違反として処罰の対象となりうべきことはもちろんこれを認めなければならないが、それは民法七一八条一項但書の注意義務違反とはおのずから次元を異にする別個の問題であると考える。

以上のとおり、本件犬の動作と被上告人の損害との間に因果関係の存在を肯認した原判決には民法七一八条一項の解釈適用を誤つた違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、私見と見解を同じくする第一審判決は正当であり、被上告人の控訴は理由がないから、これを棄却すべきである。

(大橋進 木下忠良 鹽野宜慶 宮﨑梧一 牧圭次)

上告人代理人立川康彦の上告理由

原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかなる法令の違背があり破棄さるべきである。

一、最高裁判所昭和三四年(オ)第一〇四九号、同三七年二月一日第一小法廷判決は、民法第七一八条一項の動物占有者の保管上の注意義務が、動物の種類性質に従い通常払うべき程度の注意義務を意味し、異常事態に対処しうべき程度の注意義務まで課したものではないことを判示している。

二、右事件における加害犬は一般に性質の比較的温順なグレートデン種の雌犬二頭であるが、うち一頭はかつて学童を追い掛け擦過傷を与えたこともあり、二頭とも体格が大きく、かつ力の強い犬であつた。これに対し本件においては「体長約四〇センチメートル、体高約二〇センチメートルのダックスフント系雄犬」「本件犬は大型ではない愛玩犬であつて、一般的には人に危害を加えたり畏怖感を与えるおそれはないもの」(原判決認定より引用)である。

右最高裁判決の事案は右二頭が突然跳びかかり身体各部に咬傷を加えたものであるが、本件においては「吠えることなく歩いて川の方に寄りながら二メートル程控訴人の方に近付いた」にすぎず「控訴人が転落した頃本件犬は控訴人の転落地点道路上から前方約三ないし四メートルの道路中央よりやや左寄りに佇立して」いたものである(原判決認定より引用)。

三、本件の右原判決認定を前提としても、その状況から本件事故を防止すべき義務が上告人にありとなすことはできない。

注意義務の前提として結果発生の予見性が必要である。なるほど原判決は「子供にはどのような種類のものであれ、犬を怖れる者があ」るという。これは肯認できよう。しかし、そのことが「本件のような事故の発生」を当然に予測させることにはならない。

原判決の認定する一般的には人に危害を加えたり畏怖感を与えるおそれのない小犬が吠えることもなく歩いているそばに小学校二年生の男の子がいる状態で、一般人はその状況からその子に危険が発生するとして直ちに何らかの措置にでるであろうか。また、法はそれを期待するであろうか。

原判決は「飼主の手を放れた犬が控訴人に近付いたこと」「普段から犬嫌いであつた控訴人が近付いて来る犬に一瞬ひるんだこと」「控訴人が身体に比してやや大きすぎる自転車の操縦に充分慣れていなかつたこと」を本件事故発生の原因とするが、右に述べたとおり、本件犬が近づいたことから一般人に危険発生を予見させることは困難であり、更に相手方の事情である他の二つの要素を予見させることはなお一層不能を強いるものである。

原判決は、通常払うべき程度の注意義務をはるかに超えて異常事態に対処しうべき程度の注意義務を課したものと断ぜざるを得ない。

四、本件については相当因果関係を認めることができないものである。

前記最高裁判決の事案は二頭の犬が突然跳びかかり身体各部に咬傷を加えた事件である。また最近の最高裁判決として、昭和五六年(オ)第五二三号、同年一一月五日第一小法廷判決の事案もシェパード犬が走行していた原動機付自転車に接触した事案である。更に、上告人は動物による人身事故で加害が直ちに認められる咬傷以外の事例を最近の判例時報からひろいあげ本件と比較した(第一審昭和五五年一二月一日付準備書面)。

昭和五一年七月一五日大阪地裁判決(判例時報八三六号)の事案では激しく吠えながら襲いかかつており、昭和四八年九月二八日松江地裁浜田支部判決(判例時報七二一号)の事案でも背の長さ一メートル、体重四〇キログラムあまりのコリー犬が小走りに被害者の方に向つて来て被害者の目と鼻の先位に近づいて突然前足をあげ、昭和四九年四月一八日和歌山地裁判決(判例時報七五七号)では体長九〇センチメートル、体高六〇センチメートルのセパードに似た雑種犬が吠えついており、昭和五〇年一〇月二七日東京高裁判決(判例時報八一九号)は乳牛が追いかけた事案である。

原判決認定のように一般的には人に危害を加えたり畏怖感を与えるおそれはないものであつて、特定の子供には怖れる者があるということであれば兎や猫でも怖れる子供はいる。しかも何等の攻撃的動作もしていないことも前述のとおり原判決の認定しているところであり、更に被上告人は本件犬の存在を知つてそばを通り抜けようとしたものであつて特段に驚かしたという要素もない。

右のとおり、本件犬はその性質、態様から被上告人に違法な力を加えたものではなく、同人のその後の行動は同人の選択に基く自由な行動であつて本件犬から強制されたものではない。被上告人が本件犬を怖れていたとしても、他に退避方法は自転車からおりるなり種々あるなかで、被上告人が自由に選択して本件犬の左側を通り抜ける方法を選択し、その方法は「控訴人が運転を誤らなければ、本件犬の左側を通り抜けて走行することは可能であ」(原判決認定)つた。

また、人に危害を加えたり、畏怖感を与えるおそれのない犬をみて、犬嫌いの子供がころんだとしてもその犬が子供をころばせたことにはならない。

つまり、本件は、本件犬の性質、行動と発生した結果との間に相当因果関係を欠き、被上告人に対する違法行為としての要素を具備しないものである。

五、上告人は原判決事実認定に多大の不満を持つが上告審の性格上次の一点の指摘にとどめる。

原判決は「控訴人は日頃から犬嫌いであつた」と認定している。しかし、被上告人は一審においては原告代理人の「あなたは犬はきらいですか」との質問に「はい。犬はきらいです」と答えているのみで(五五年一月二四日本人調書一一項)、本件事故時一緒にいた浜本君の家にいた犬をこわがることもなく(五六年三月三〇日原告法定代理人武本佐登枝調書一三、一四項)、その犬はシェパードであつた(原審証人藤井信子調書五二項)。

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